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2014年3月31日

3.16 東京6:32発 はやぶさ1号で、仙台経由石巻へ。

予約していたタクシーで、まずは日和山公園。3年前にみたマンガ館を眼下にのぞむ入江のカーテンのゆれる家々は、すべて取り壊され、跡形もなくなっていた。

更地の真ん中に家が見える。再建されたお宅があるのかと思ったら、取り壊すことができない住宅だという。土台をしっかり残し、すぐにでも住めるような真新しい家だった。

震災後の2011年6月、最初の被災地訪問は石巻だった。地元で建築設計事務所を営む杉さんに、日和山と沿岸一帯を案内していただいた。焼けただれた小学校、大きな店構えの看板、新装オープンしたばかりと思われる美容院。ここでの営みがくっきりと残る瓦礫の中を、言葉を失いながら走ったあの日から3年。沿岸はきれいにかたづけられていたが、どこまで行っても、なにもない更地が続く。「がんばろう!!石巻」と掲げられた場所は、献花台が設けられ花が添えてあったが、跡形もなくなった場所からは、まったく先がみえない。「ないもない。」ということの焦燥感が、より色濃くなっていた。

それでも、開館したマンガ館には、日曜日ということもあり、子供連れの家族が集い、にぎやかに屋台も出ていた。時間の関係で海鮮汁を食べることができず心残りだったが、2Fの展望台脇から石ノ森マンガの主人公達が降りてくるショーを楽しく見る事ができた。石巻の復興のシンボルともいわれたマンガ館がしっかりと蘇っていたのは、うれしかった。これからも復興の励みになっていくだろうと、素直に喜んだ。

石巻駅に戻り、仙台で事務所を被災しVectorworksをお教えした米村さんと待ち合わせ。10分ほど前に着いたので、震災直後から再開していた杉さんのお母さんの喫茶店に顔を出す。アポなしなので、杉さんに会えるとはおもっていなかったが、隣にいるという。喫茶店の隣を事務所にして、設計の仕事で忙しくしているとのこと。3年前の杉さんは、亡くなった友人も多く、先が見えない状態でほとんど口を開く事はなかったが、この日はご自分からいろいろお話してくださった。復興計画は、東京からのコンサルが入りモデルケースが出来ているが、地元の意見はほとんど受け入れられず、住宅はハウスメーカーが一手にやっていて、住民は横へおかれたままである。地元の意見を聞かずにお金をかけても長続きしないと、憤りを口に出していた。長く地元で設計をやってきたことで個人のつながりもあり、徐々に仕事も増えてきたそうだが、石巻に人が戻り、街をどう再建していくか課題は大きいと、苦難を乗り越え、前を向いて行くしかない。という覚悟の顔には、気迫さえ感じられた。「また、あらためて来ます。お話聞かせてください。」と言うと、「アポなしでもいいです。いつでも来てください。」と、見送ってくれた。

石巻駅で待っていてくれた米村さんと合流。石巻最初の高台移転計画に東北JIAの推薦で参加メンバーに加わり、プランつくりから住民説明会とほとんどが手弁当。Vectorworksで復興プランをつくるということで、お手伝いをした。模型をつくり会場へ運ぶ。プラン変更要望に、また模型をつくりなおす。という繰り返しの中で、高台計画地の測量データを入手、等高線から3次元コンターを作成、その上に、道路を引いて、住宅、集会所の配置計画を置く。パソコンの画面には、味気ない箱置きから、屋根をつけた家が配置され、植栽も植えられ、道のカーブ、隣の家の覗き具合と、様々な角度から住宅をながめる。海を望む高台移転は住民がようやくとりつけた場所であったが、山を切り開いての盛土、切土でつくる環境は、海沿いのくらしと大分異なる。説明会では、風のとおりやわずかな段差もこまかくチェック、さすが年の功、自然の中での暮らしは五感の鍛え方が違う。見えないものを感じる力のすごさに驚いた。

何時はじまるかわからない工事を仮設住宅でじっと我慢をしてきたそうだが、予定通りの場所で工事がはじまり、その高台移転の現場を案内してくれることとなった。

続きは、エーアンドエーのウェブサイトで。

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